死刑反対論への疑問点 – 少年を見捨てる社会

 少年犯罪の凶悪化とか、犯罪の厳罰化、死刑の是非に関するニュースや主張はよく見る。

 しかし、その根拠がきちんと示されていないのでは、話にならないと思う。

裁判員裁判を通じ死刑制度をもっと身近な制度とするためのステップアップは、予定通り順調に進んでいるようですね(皮肉)
[From 少年を見捨てる社会 – Afternoon Cafe – BLOGOS(ブロゴス) – livedoor ニュース]

 この筆者は、マスコミが少年による凶悪犯罪の増加を印象づけ、そのため、不必要に厳罰化が進んで、凶悪犯罪を行った未成年の更正を図らず、死刑にしてしまう風潮にあること。それが裁判員制度の下で、着々と一般化されつつあると警鐘を鳴らしている。

 それはそれで、ひとつの見識だと思うのだが、その主張の根拠が薄弱というか前時代的な倫理観に基づいているようで、少年犯罪の増加を煽るマスコミと同レベルの主張なんじゃないかと思ってしまった。

 まず、疑問に思ったのが長文で引用されている「弁護士 猪野亨のブログ」からの文章。

一定数において一定の凶悪犯罪が引き起こされているのであれば、その原因は社会に内在しているのであり、その原因を除去しなければ、第2、第3の凶悪犯罪が引き起こされます。

少年が最初から凶悪だったはずがなく、生育環境によって、その成長は大きく異なるからです。少年だけに「責任」を押しつけるようなやり方は健全とはいえません。

 この主張は、いわゆる「性善説」が前提になっているように読める。つまり、人間は先天的には善で、後天的にその本能を汚損して悪を行うという考え方だ。これに待避される考え方が「性悪説」で、人間は先天的には利己的欲望の存在で、善を後天的に学ぶというものだ。 性悪説は儒学の孟子が、性悪説は荀子が唱えた。
 人権とか人道の問題を考えるときに、性善説や性悪説を前提として議論をするのは、そもそもナンセンスだと思う。性善説や性悪説は2000年以上前の中国の人たちが、抽象的な哲学議論の中で編み出したモノで、臨床心理学や精神医学などの科学的な検証を行って得た結論ではない。現代の人権や人道を語るときに役立つモノではないだろうと思う。
 猪野弁護士は「一定の凶悪犯罪が引き起こされているのであれば、その原因は社会に内在している」というけど、それについて科学的な証明はされていないはずだ。一部の社会学者が社会状況と犯罪発生率の相関性を指摘しているかもしれないが、それは単にひとつの傾向にすぎず、絶対的な要因ではない。

 つまり、少年の凶悪犯罪は、少年の置かれた社会状況に影響されることもあるし、そもそも先天的に犯罪を犯しやすい特質をもって生まれた場合もある。 そもそも1億2000万人が、みんな同じ精神の特質を持って生まれてくるものだろうか? 人それぞれ、容姿や才能が異なるように性格も異なる。そして、なかにはとても極端な性格をもって生まれてくる人もいる。身長2mの人がいるように、良心を持たない人、他者に共感をしない人、自己中心的で行動に対する責任をとろうとしない人がいる。
 そういう人は、責任能力のない精神病ではなく、性格異常などの人格障害に分類されるようだ。

 大阪の附属池田小で罪のない児童を多数殺傷した宅間守や、少年時代に母親を殺害し少年院を仮退院後に美人姉妹を襲って強姦・殺害した山地悠紀夫が、人格障害であり責任能力があると診断され、いずれも死刑になっている。光市母子殺害事件の元少年A死刑囚も、一連の犯行やその後の裁判での言動を見ると人格異常を感じさせる。

 宅間守と山地悠紀夫は、社会的に幸福であったとは言い難い。しかし、社会的に不幸な人は大勢いるし、彼らの大半は凶悪犯罪など犯さずに自分の人生を生きている。また、宅間守と山地悠紀夫の社会的不幸は、本人の気質に起因している。
 凶悪犯罪の中には、社会的原因によるものもあるかもしれない。しかし、殺人者になる特質を持って生まれてしまい、殺人を犯してしまったものもいる。そうなってしまったことは、殺人者自身にとっても不幸だが、そういった人間と共存を迫られる周囲の人間にとってもっと不幸だ。
 もし、すべての人がマザー・テレサのように慈愛に満ちていて、自分の人生をなげうって、他者のために働くことができるなら、こういった人格異常者を暖かく見守り、凶行に走らせないように善導することもできるかもしれない。
 しかし、この資本主義で実力主義の社会で現実的に生きていくためには、全員が社会のルールとマナーをある程度遵守し、人に迷惑をかけないように生きていくのが前提だ。多少のドロップアウトが許されないわけではない。むしろドロップアウトできる人間がチャンスをつかむ場合もある。
 しかし、人の命を奪うことを躊躇しないほど逸脱してしまったものを許容できる余裕が、今の人間社会にありうるだろうか?
 そして、

 少年に対する死刑は、全く犯罪抑止にはなり得ないでしょう。

 これも根拠がまったくわからない。他者に共感せず責任を取ろうとしない人間の行動を押しとどめるのに、自己保存の本能に訴える意外にどんな手段があるのだろうか? その方法論をまったく示さず、性善説をなんとなく想起させながら、「全く犯罪抑止にはなり得ないでしょう」と断言してしまうこの弁護士の主張に、僕は違和感しか感じられなかった。
 さて、ここまでは、引用されたブログの文章についての疑問だ。 引用をして「少年を見捨てる社会」というエントリを書いた秋原葉月氏は、まず
少年による凶悪犯罪が増えたというのはマスコミの誤誘導で、実は統計では凶悪な少年犯罪は減少傾向にあります。

 と述べる。これは、最近よく知られている事実だ。次に光市母子殺害事件をひきあいに出す。

 少年の更生を促す声は全く聞かれず(あったとしてもかき消され)、マスコミ筆頭に殺せ殺せの大合唱でした。

 これはまったく主観的な文章で、たしかに被害者側に同情的な報道一色ではあったが「殺せ殺せの大合唱」というほど具体的ではなかった。
 むしろ、この裁判が注目されたのは、被告の主張を突然一転させた弁護側の行動が、一般世論の理解を得がたいものだったからだ。
 この弁護側の行動が被告に対する世論の憎しみを一気に燃え上がらせた。当時橋下弁護士が、この弁護団の行動を批判したのは、弁護士として適切であったかどうかは疑問だが、当時の世論を代弁したからこそ支持され、また尻馬に乗る人間も現れてしまった。
 この橋下弁護士に対し、秋原葉月氏は

被告人を弁護する立場のはずの橋下弁護士がバッシングの先頭にたつという、誠に軽蔑すべき、唾棄すべき行動をとったことに象徴されるように、一億総「死ね死ね団」といった様相を呈していました。

 と批判している。が、弁護すべき義務を負うのは、被告人の担当弁護士であって、橋下弁護士は第3者なので、「被告人を弁護する立場のはずの」という表現はおかしい。細かいことだが、感情的で非論理的な文脈だと思う。
 秋原氏の文章はさらに飛躍していく。 

当たり前ですが、子どもは社会で育てるものです。子ども手当だってその理念に基づいて創設されたはずです。それは社会が本来持つはずの機能「相互扶助」「再生産」のひとつです。

 子ども手当がなぜここで登場するのか? 少年犯罪厳罰化を肯定する人が必ず子ども手当を肯定しているなら、こういう書き方もありだろうが、現実には、肯定する人も否定する人もいるはずだから、よくわからない。 さらにいえば、「当たり前ですが、子どもは社会で育てるものです」というのも、本当に当たり前なのかな? と思う。

 子供を育てる当事者は誰か? もちろん、親や家族だ。実際に子供を育てたことがある人ならわかるはずだが、子育てにおいて社会の補助はとてもありがたいけど、なにより親が身を削って育てなければ、子供は育たない。特に現代社会においては、この親が身を削る感覚が増大している。自分の個人的ななにか諦めないと子育てはできない。だからこそ、一方で子供に期待をかけてお金と時間を注ぎ込むことが日常化し、他方で親による虐待も増えている。

ところが今は、一線からドロップアウトした少年を(少年に限らずですが)率先して憎悪し、切り捨て、排除し、抹殺しようとする風潮が幅をきかせています。

 これも、特に例をあげずに断言されているが、本当にそうだろうか? 一部のネット上の発言を別にすれば、そんな風潮が強まっているようには思えない。むしろ、僕が子供だった30年くらい前に比べれば、ドロップアウトしても生きていきやすくなっている。
 昔は、きちんと学校を出て会社に就職しないとつまはじきだったが、今は社会が柔軟化し、都会にでればフリーターとして生きていけるし、ネットのおかげで努力と才能があれば世に出やすくなっている。
 秋原氏の言う「憎悪し、切り捨て、排除し、抹殺しようとする風潮」というのは、凶悪犯罪者に対してのみの現象だと思う それを社会一般がドロップアウトに厳しきなっているかのように書くのは、あきらかに拡大解釈だと思う。
 というわけで、この「少年を見捨てる社会」という文章は、社会正義を振りかざしているけど、全体的に主張の根拠が薄弱だと思う。

 人間がみな同じではなく、凶悪犯罪を犯しやすい気質に生まれてしまった人が、犯罪を犯したとき、社会はそれをどう扱うべきなのだろうか?
 生きていくためのお金がなくなったとき、一般的な日本人なら周囲や行政に助けを求め、なんとか生きていこうとする。
 しかし、世の中には生活保護も受けずに餓死する人もいれば、人を殺してお金を奪うことで生きながらえようとする人もいる。
 さらに、自分の生存を保つために人を殺すのではなく、自分の快楽や欲望のために人を殺す人もいる。光市母子殺害事件はそういった快楽や欲望のために犯された殺人のひとつだ。

 自分の生存のために、盗みや殺人を働いてしまった人は、手に職を付けさせて生存手段を与え、生存が危うくなったときに犯罪以外の方法で生存を計るように動機付けすることで「更正」できるだろうというのは理解できる。
 しかし、人格異常で他者の生存に価値を認めず、自分の欲望や快楽のために殺人を行ったものを、更正させることは本当に可能なのだろうか?
 母親を殺した山地悠紀夫は、「法律を守ろうとは思わない」と自ら明らかにし、精神鑑定でも出所に疑問が付されたにも関わらず少年院から出され、罪のない姉妹を襲って強姦・殺害し、放火した。 更正不可能な人間が、社会に再び放出されることは恐怖だし、我が身を削って育てた我が子を理不尽に殺された被害者の良心の気持ちは耐え難いものだろう。
 それでも死刑を廃止した場合、更正不可能な人間を社会が刑務所に閉じ込め、生かし続けることに意味はあるのだろうか?
 死刑廃止を唱える人たちは、そう行った点を明らかにして論じてほしい。
 単に「命の大切さ」とか「加害者の人権」という言葉だけでは、とうてい納得できないから。

 

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ともゆき@zubapita

ともゆき@zubapita

作ったモノ 雑誌:月刊アスキー(デスク)、アスキー.PC(副編集長)、インターネットアスキー(編集長)、アスキーPCエクスプローラー(編集長) Webサイト:東京グルメ/ライブドアグルメ、映画を語ろう、本が好き 著書:「Twitter 使いこなし術」「facebook 使いこなし術」 最近は、株式会社ブックウォーカーにて、「BWインディーズ」をやってます。

“死刑反対論への疑問点 – 少年を見捨てる社会” への2件のフィードバック

  1. >しかし、人格異常で他者の生存に価値を認めず、自分の欲望や快楽のために殺人を行ったものを、更正させることは本当に可能なのだろうか?

    現在のところ、反社会的人格障害の治療はほぼ”不可能”と言われているようですが、本当にどうなのでしょうね?
    ここで、私は例の酒鬼薔薇事件の加害少年をどうしても思い出してしまいます。その猟奇性から多くの精神科医が反社会的人格障害に当てはまる要素が極めて多い(未成年ゆえ断定は不可能)と言われていましたが、国家プロジェクトともいえる治療プログラムで果たして彼は更生できたのか?
    その更生が成功ならば、これは凄いことであると思うのです。反社会的人格障害的であっても未成年なら治療も可能であるということの裏付けになりますから。更生の可能性はあるということにもなる。この成功例が医学的に発表されたなら、世界中が驚くと思うのですが、ぶ厚いベールに閉ざされたままですね。

    >それでも死刑を廃止した場合、更正不可能な人間を社会が刑務所に閉じ込め、生かし続けることに意味はあるのだろうか?

    おっしゃっているのは絶対的終身刑(いかなる理由によっても釈放されることのない終身刑)のことですよね?
    二度と社会に出てこないという意味において、その犯罪者からは我々は守られるという意味はあると思います。
    ただ、加害者の人権という意味では逆なのではないかと。
    未来永劫自由を得るとこはない絶対的終身刑は死刑よりも残酷だと言えると思います。
    実はこの絶対的終身刑のある国は殆どありません。実質的に懲役200年とか実質的に同様の刑はありますが、システム上はなんらかの軽減措置が設けられています。つまりどんなに可能性が低くてもゼロというわけではない。0.00000000001パーセントと0では天と地ほども違いますから。

    まぁこの絶対的終身刑というのはコスト的にも不可能なので、実現はしないでしょうね。

  2. bluedogさん、コメントありがとうございます。

    おっしゃるように、医学、精神や脳の科学が発展した現在、人格障害を治療することに挑戦する価値はあると思います。
    かなりの困難が伴いそうですが。

    絶対的終身刑というのは、実質存在しない、というのは知りませんでした。ということは、死刑のない国は、どんな犯罪者でも、いつかは釈放される可能性があるってことなんですね。

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