兄が死んだ

6月 18th, 2010

兄が急逝した。今日、これから親族だけの密葬をする。

二日前、会社で仕事をしているところに、「お義兄さんが倒れた」と僕の奥さんから電話がはいった。僕の家は実家から徒歩1分の距離にある。

兄が倒れたと聞いても、正直、このときは「またか」と思った。兄は前にも救急車騒ぎを起こしたことがある。

父と喧嘩して、睡眠薬を大量に飲んだと思い込んだ母親が救急車を呼んだが、結局、適量飲んだだけで何の問題もなかった。兄は歩いて帰ってきた。

しばらくすると、2回目の電話があった。「脳出血」だという。

それはまずい、と思っていると今度は病院につきそった母から電話で「今すぐこれないか」という。

慌てて会社を早退して、病院へ向かうが、思ったより動転していて逆方向の電車に乗ってしまった。慌てて渋谷で降りて五反田経由で旗の台の昭和医大に行った。

救急救命センターの入り口で母と合流した。「あとで、もう一度お医者さんから説明があるはずだけど」と前置きして「出血が大量でゴルフボールぐらいの大きさになって、一番大事な脳幹を圧迫しているんだって。瞳孔も開いていて、手術をしても助かる見込みはないというの」

兄は、もう何年も実家にひきこもり、2階の自室にこもってネットゲームばかりして、不規則な生活をおくっていた。その日は昼飯をふつうに食べたのだが、3時ごろに「ドタン」と大きな音がしたので、母が駆けつけてみると椅子ごと兄がひっくりかえっていた。本人が吐き気を感じて「洗面器!」と叫んだそうだが、最初は間に合わないので手近にあったバスタオルに吐かせたという。

ただごとではないと感じて、救急車をよぶうちに、だんだんと呂律が回らなくなり、やがて大きないびきをかきながら昏睡状態になった。

かつてはジム通いや空手やボクシングが趣味で筋肉隆々だった兄は、長年のひきこもりで、それらの筋肉がすべて贅肉に変わり、さらに1.5倍以上に増えて太っていた。あまりの重さに救急隊員が何人も苦労しながら運んだという。

外出していた父もやってきて合流し、兄に面会した。変わり果てていた。顔がむくんで2倍くらい大きくなったように見えた。いくら最近太ったとはいえ、こんな相撲取りみたいに膨らんではいなかったはずだ。母によると、「倒れたときはこんなではなかった」という。出血が顔の内側から風船を膨らますように、兄の顔を膨らましているみたいだった。

やがて医者がやってきて説明してくれた。パソコンの画面に脳の断面図を表示し、マウスのスクロールホイールを回すと、首の上から頭の頂点まで順に断面図が切り替わる。出血はゴルフボール大なんてものじゃなかった。もはや脳の3分の1近くを真っ白な影が占めていた。

「これだけの出血が内側から脳を圧迫しています。圧を下げる薬を与えました。そこで圧が下がれば手術をする余地もあるのですが、圧は下がらず、瞳の黒い部分、瞳孔というんですが、それも開いています。もう意識は戻らないでしょう。」

「今は医学が進んでいますから、延命をすることはできます。そのためには人工呼吸器などをつけて、あちこちに管を入れなければならない。それは回復のための治療ではなく、ただ延命のための処置です。そして一度、人工呼吸器をつけたら、それを外す判断をするのが難しくなる。」

「しかし、命を少しでも延ばしたい、というお気持ちもあるかもしれません。それは他人の私が口出しできることではない。そういった処置をするかどうかは、ご家族で判断してください。」

僕と父は、だまって母の言葉を待った。兄と母のつながりは深かった。長男ということもあるし、たまたま兄が母と同じ高校に通ったり、同じようにピアノや音楽を趣味としたこともあるかもしれない。母は3人の子供を同じように愛したが、兄は最後まで自立することができず、母はそれをある意味では受け入れ、ある意味ではひどく甘やかしてしまった。それが兄の引き籠もりを長引かせ、悪化させた原因のひとつなのは間違いない。

10年前、同居していた母の叔母、僕にとっての大叔母が入院先の病院で突然の肺炎で亡くなったとき、医者は原因究明のため遺体の解剖をさせてほしいと言い、父も兄も僕も「原因を知りたい」と同意したが、母だけは「もう傷つけないであげて」と泣きながら反対した。そのため、解剖は中止となった。

今回も、もし母が「命があるうちは生かし続けてほしい」と言えば、僕と父は反対できなかったろう。しかし、母は「今は答えをだせない」と言った。僕は意を決して言った。「管を入れたりして、苦しみを長引かせるようなことはしないでください」それは、絶対に言わなければならない、と思った。兄はそんなことは望まない。母を除けば、僕ら家族は一致してそういうことは合理的に考えてきた。

母は反対しなかった。父はそれでいいと、かすかにうなずいた。明らかに医者はホっとしたようすで「わかりました」と応えた。

僕らは承諾書にサインをし、僕と父は母を残して帰った。母は遅れてくる妹を待った。兄はあと2、3日は持つかもしれないという話だった。父は実年齢からすると驚くほど元気な老人だが、実は数年にわたる癌治療で体力がかなり落ちている。これ以上待たせることは無理だった。最後の局面がやってくるのは、もう少し先だろうと思っていた。

僕の家に父を連れ帰り、いっしょに夕食をとった。久しぶりに父と話した。父は先日の免許書き換えで、実技試験をなんなくパスしたときの小さな武勇伝を語っていた。そこに妹から電話が入った。「今、息をひきとったよ」

早かった。まさかこんなに早いとは。僕らはクルマで病院に向かった。

兄は最後まで、現実に戻ることなく逝ってしまった。夢を抱え果たせず、挫折し、現実逃避してネットゲームにのめり込んだまま、ひきこもったまま、死んでしまった、とそのときは思った。

僕ら兄弟は、子供の頃『600万ドルの男』という海外テレビドラマに夢中になった。元宇宙飛行士のスティーブ・オースチンが着陸事故で手足を失い、代わりに機械の手足による超人的な力を得て秘密諜報部員として活躍するSFドラマだ。

「医者になって、さらに機械やコンピュータを勉強し、サイボーグを作りたい」と、兄は子供の頃はよく言っていた。

高校生になると、「医者になりたい」と明確に希望するようになった。ただ、人を救う医者ではなく、研究医になりたいと。サイボーグを作りたいと本気で思っていたのかもしれない。

兄は、理数系が得意だった。僕らが出た公立中学は、都内でもトップレベルとされていた。当時は通知表が相対評価だったので、公立高校の受験に不利だから近隣に転校する人もいるという話だった。その中学で兄は、「数学と理科の天才」と言われていた。

しかし、英語と国語には苦労した。よく喋る人で読書も好きだったが、長い文章を書くことがまったくできない。それは勉強のレベルの話ではなく、今思うと、一種の知的障害ではなかったのか、と思うほどだ。本人によると「文章をどう書いていいのかまったくわからない」のだいう。

インターネットの時代になって、たまにメールを送ってくるようになっても、2行以上の文章を見たことがない。いつも、事務的で断片的な言葉しかなかった。

数学には証明問題があるし、物理や化学にも論述がある。それらは問題なく記述できるのに、理数的要素が欠ける文章を書くことには、ひどく苦労するらしい。不思議な話で、本人も周囲もこの問題を最後まで解決できなかった。

兄は医学部を目指して受験したが、どこにも受からなかった。親や先生が一般の学部をすすめても受験すらしなかった。不本意な学校や学部に入ることを拒んだ。その結果、2浪目に失敗したところで、父が「これ以上は支援できない」と言った。うちは裕福ではなかったし、次は僕の受験の番が来ていた。

兄はいったん医大を諦め、専門学校で公認会計士を目指すことにした。ここでも計数の分野ではめざましい力を発揮し、簿記一級試験で「史上初の入学後2カ月で合格」が確実と言われた。しかし、兄は合格せず、史上初を達成したのは別の同級生だった。

それでも6カ月後の次の試験には見事に合格し、簿記一級を取った。しかし、公認会計士の試験には小論文があって、ここでまた挫折してしまう。専門学校の先生に、そもそも文章が書けないのでは「教えようがない」と言われ、学校をやめた。

1982年。パソコンの時代が始まろうとしていた。

兄は小さな開発会社に就職し、プログラマとして働き始めた。兄を不憫に思った母は、「勉強のため」とパソコン一式を買い与えた。富士通の8ビットマシンFM-7だったが、予算の関係でグリーンディスプレイとカセットレコーダしかついていなかった。それが我が家で始めてのパソコンだった。しかし、兄はFM-7はほとんど使わなかった。兄には勉強のためのパソコンは不要だったのだろう。仕事でいきなりインテルのアセンブラを使って銀行ATMのプログラムをゴリゴリ組んだ。

代わりにFM-7は僕が1日中触りまくった。僕はバイトで得た金で、カラーディスプレイや漢字ROMやプリンタやワープロソフトを買い足し、ゼミのレジュメを作成した。

兄はプログラマやSEとして、かなり優秀だったらしい。会社を転々とするたびに給料が上がった。「オフィス・オートメーション」などの言葉が流行り、時代は急速のコンピュータとネットワークに依存するようになった。仕事はいくらでもあった。帯広空港の管制システムのテストのために北海道に出張にも行ったりしていた。

当時富士通の親会社だった富士電機系の会社などで「正社員にならないか」と何度も誘われた。しかし、兄は契約社員のまま、給料をつり上げることにこだわり、あっという間に年収が1000万円を超えた。

「給料をもらったとき、札束が机に立たないとダメなんだよ」と笑っていた。

SEとして稼ぎまくり、その金で遊びまくった。ジム通い、テニス、スキー、ボクシング、空手。トヨタのミッドシップマシンMR2を買ってレーシングクラブに参加し、A級ライセンスを取得し、草レースにも出た。大型バイク、特殊、トレーラーなどありとあらゆる自動車免許をとってみたりもした。クラシックやポップスのレコードやCDも大量に買い集めた。大勢の友だちがいて、人生を楽しんでいるように見えた。

ところが突然、会社を辞めてクルマを売り払い、「大学を受験し直す」と言いだした。稼いだ金をいったいいくら貯めたかは知らないが、その金で予備校に通い、何年か受験をした。しかし、受からなかった。

次に「スキーの一級をとる」と宣言してひと冬の間、山に籠もってスキーの特訓をした。しかし、一級はとれなかった。

山から降りてきた兄は完全に脱力していた。大学も受からず、スキーの一級もとれなかった。ここで最初の引きこもりがはじまった。ただ、このときはネットゲームもまだそんなに流行っていなかったせいか、1年か2年で徐々に自分から社会復帰をしていった。

「SEはもういやだ。大学を出ていないというだけで、面白い仕事はほかに回されてしまう」そう言って、持っている免許を活かしてトレーラーの運転手を始めた。実入りは悪くなく、本人も気に入っていたようだが、仕事中に追突されて鞭打ちになり、辞めてしまう。

そのあとは、文房具屋でアルバイトしたり、ヤマト運輸で、早朝の配送センター間の輸送の仕事だけして、昼間はのんびり過ごしていた。貯金もまだ余裕があったようで、思えば、この生活をずっと送らせておけばよかったのかもしれないが、親はひどく心配した。親にとっては、まともな会社に就職して、毎日スーツを着て出勤してくれないと安心できないのは、しかたない。

「せっかく才能があるのに」と母はよくこぼした。敏腕SEの兄を、母は誇りに思っていたのだと思う。そのぶん、残念な思いも強かった。

母の期待と無念が兄にはうるさかったと思うが、だからといって家を出ようとはしなかった。自立という言葉は兄の辞書にはなかった。兄は家事にはいっさい興味がなく、食費や光熱費などはすべて無駄な出費だ。実家に寄生することで、自分の稼いだ金と余暇を最大限の効率で自分の遊びや趣味に投じる。それは、兄にとっては当たり前のことだったようだ。

そのずっとあと、僕に子供が生まれたとき、「お祝い」にとポンと10万円をくれたことがある。そういうことには金を惜しまない人だったから、吝嗇なのではない。ただ、数学の公式を解いたり、効率の良いプログラムを書くように、普段の出費を効率よく押さえる最適解として実家への寄生を選んだ。そういうことなのだと思う。

しばらくして兄の空手仲間がIT系の会社を起業した。その際「コンピュータのことをいろいろ教えてもらったお礼に」と兄の社会復帰を進めてくれた。日立系の会社に派遣エンジニアとして兄を就職させた。再び、兄がスーツを着て会社通いを始めたことに母は喜んだ。仕事は忙しく、常陸市への出張が増え、やがて、平日は常陸に寝泊まりし、週末だけ帰ってきた。

母の喜びとは裏腹に、兄はあまり面白くなさそうだった。「あたらしいネットワーク系の勉強ができると思って就職したのに、実際には従来系SE仕事ばかりだ。SEとしては、給料が安すぎる」

やがてITバブルが弾けて景気が悪化し、兄の友人の会社は日立から切られたが、兄だけは残って仕事を続けた。やがて兄を雇い続ける予算もなくなり、兄は再び職を失った。兄は次の仕事を探さず、また貯金でひきこもり生活を始めた。

それでも、最初の頃は家族でいっしょに食事をし、平穏に過ごしていた。妹に娘が生まれ、子供好きな兄はとても可愛がった。兄と妹は10歳くらい離れていて、妹が生まれたときも兄は非常に可愛がったが、姪が生まれたことが本当に嬉しそうで、妹夫婦が遊びに来ると、実家のリビングで楽しくときを過ごしていた。

ただ、一切働かなくなった兄に対して、父は不満を募らせていたと思う。そもそも、父と兄は昔からよくぶつかっていた。自立心が欠けるのに、自分の我を通すことに熱心な兄に対して、自立心の固まりのような父は、許せない気持ちがあったのだと思う。しかし、それを親として正しく導くという発想も父にはなかった。

僕が父に、兄とコミュニケーション不足ではないかと言ったとき、「そうかもしれない。だけどね、俺の親父、お前達のおじいさんもそういう人だったんだよ。子供とそういう話をする人ではなかった」

父と兄はしだいに仲が悪くなり、何度かぶつかったあと、兄は自分の部屋に引きこもり、一切外に出なくなった。

たぶん父とのことだけが原因ではない。大好きだった姪は、物心が付くと大きな男の人が苦手になった。大きな男の人が近くにいると大泣きする。体格の良い兄の顔を見るたび大泣きするようになったため、兄は妹夫婦が遊びに来ても顔を出さなくなった。

可愛がっていた猫も死んだ。僕が昔、勝手に連れてきた猫だ。15年生きて、マグロのネコ缶を食べ過ぎてコレステロールが原因で、心臓発作で死んだ。

猫を連れてきた僕は、雑誌の仕事で家にいることが少なく、あまり面倒はみなかった。代わりに父と兄がよく世話をして可愛がった。

結婚して妹と僕が順に家を出て、大叔母が亡くなって、6人だった家族が父と母と兄の3人きりになっても、猫の世話をして、猫のことを共通の話題にできる限りは、父と兄の間もそれほど悪化しなかった。

「猫がいて本当によかった。小さいのがいると家の中がホっとする」と母は言っていた。

その猫が死んだとき、兄は実家の庭に埋めたいと最後まで言っていた。しかし、子供のころは広かった実家の庭も、2度の立て替えでほとんど猫の額ほどになってしまい、甘やかされて太った巨猫を埋める場所もない。亡骸は僕がペット専門のお寺に連れて行って葬った。

その1年後くらいから、兄のひきこもりはどんどん酷くなった。たまに顔を見に行っても、ネットゲームをしているか、昼間から寝ていることが多かった。ちょっとでも気にくわないことがあると食事を何日もとらず、母を心配させた。ハンストして親を困らせ、我を通そうとするのは、思春期の頃から兄の常套手段だったのだが。

それでも、僕はAppleの新製品や、話題の小説やDVDを入手するたびに、兄のところへ持って行って話をした。

兄も気になる製品があると、短いメールで「買ったら見せて」と催促してくることもあった。

そんな兄の存在を、子供たちが物心ついたときに、なんと説明すればいいのだろう? 僕はそのことについてちょっと悩んでいた。

幼稚園に上がると、子供達は実家の2階に不思議なオジさんがいることに気がついた。母や、ハンストのときは妹が食事を持って行くときに、後についていき、中をのぞき込んだりしたのだろう。そのうち、兄の孤独な城に勝手に入り込みはじめたらしい。

息子と娘がある日、僕に嬉しそうに言った。「お父さん知ってる? バアバの家にはヒィちゃんがいるんだよ!」

“ヒィちゃん”という呼び名は「ひろゆき」という名前から妹が付けたらしい。

「知っているよ。だって、ヒィちゃんはお父さんのお兄さんだもの」

「えっ!そうなの! お父さん、兄弟がいたんだ!」

「そうだよ。お父さんとヒィちゃんは兄弟なんだよ。ヒィちゃんは、昔、空手の大会で優勝したことがあるんだよ。」

「へ〜!」

ちょうど、子供たちが空手を習い始めた時期だったと思う。僕は、子供たちに自室に引き籠もっている奇妙なオジさんに、少しでも敬意を払ってほしくて、聞かれないのにそんな話をした。でも、そんな必要はなかった。

なぜか子供達は兄が大好きだった。兄を見て怖がって泣いて、引き籠もり悪化させるきっかけを作った姪も、小学生になると急にしっかりして、兄の部屋に平気で上がり込み、兄のウォーターベットで飛び跳ねた。

ここ1年ぐらいは、父が癌で入院を繰り返す中で、週末に実家に集まって食事をすることも止めてしまった。僕の仕事も忙しく、数ヶ月に1回くらいしか会っていなかった。iPhone 3Gも3GSのときも、発売の翌日に持って行って見せたのに、iPadは見せに行こうと思っていながら、いけなかった。村上春樹の『1Q84』も読みたがると思ったが、持って行ってなかった。催促メールもこなかったので、気にはなっていたが「そのうち」にと思っていた。

「そのうち」は、永遠にこなかった。

でも、代わりに子供達が、兄の相手をしてくれていたらしい。もしかすると、ここ数ヶ月は兄にとって、再び心の氷が溶けはじめていたのかもしれない。子供達の話を聞いて、そんな気がした。

48歳にもなって、10年以上引き籠もっていては、もう会社に就職することなんか無理だ。でも、能力の高い人だし、昔みたいに簡単なバイトくらいならいくらでもできるだろう。

もう少ししたら、子供達に空手や数学を教えたりして、少しだけ社会に復帰してくれるんじゃないか、とかすかな希望を持っていた。

でも、父や母が死んだ後、誰が兄の面倒を見るのだろう。あの広い実家に家事がいっさい出来ない兄をおいてはおけない。僕か、妹夫婦が実家に戻って一緒に生活しなきゃダメかもしれない。しかし、僕はもう自分の家を建ててしまっている。どうするべきか。

そんな漠然とした、僕の希望も不安も、兄は自分ひとりで決着をつけて、あちら側の世界に持って行ってしまった。

まるで、自分の命が短いことを最初から知っていたかのように、将来への計算などしないで、好きなことを好きなようにやって。

僕には、兄は身の程知らずで妥協をしらないために、それなりに才能があるのに挫折の多い人生を送っているように見えた。

でも、兄はやりたいことは、だいたいやってしまったし、大好きな子供たちからも慕われていた。

もしかすると、兄はそんなに不幸ではなかったのかもしれない。

兄が死んでから、急にそんな気がしてきた。

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カテゴリー: 日記

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コメントフィード16件のコメント

  1. 八木原優子(原夏子)

    お兄様の冥福を心より、お祈り申し上げます。

    身内の死は、心も体も重くします。

    どうか、御身大切にご自愛下さい。

  2. ヤマグチリョウタ

    はじめまして。
    不躾ながら、失礼を承知でコメントさせて頂きます。

    お兄様の人生を振り返るこのエントリーを読ませて頂いて、
    「幸せって何だろう」と考えずにはいられません。
    勿論お兄様ご本人の心境、そしてご親族の悲しみやご苦労を慮ることは出来ませんが、
    私も一つ間違えば引きこもりになっていたかも知れない過去のことを思うと、
    他人事には思えないのです。

    お兄様のご冥福をお祈り致します。
    どうぞご親族の皆様もご自愛下さいませ。

  3. Yushi

    人生というものは本当に自分の力だけではどうにもならないものが働いているとしかいいようがありません。幸せも不幸せも、ほんとうに他人からは図りようのないその人だけの世界であろうかと思います。ご冥福をお祈りいたします。

  4. ぐりまる

    wikipediaのことを調べているうちに、このサイトに今日、始めてたどりつきました。

    俺もお兄さんと多かれ少なかれ似たようなところがあって、何だかある部分は自分のことのように思えました。

    お兄さんの人生は本人がどう考えていたのか、本人しか分かりませんが、もし、俺と同じような方なら、寄生していたのではないと思います。
    それは、おそらくもっと深く悲しい現実を知っていたのかもしれません。それは、ご推察のとおりの知的障害かもしれず、だとしたら、お兄さんはご自分が他人と違うことを理解されていたと思います。

    それでも自己実現に挑戦しては、疲れ、また挑戦しては疲れ・・・

    弟さんであるあなたが理解していてくれたのは、何よりです。きっとお兄さんもあなたのことが大好きだったでしょうから。

    出すぎたことを書いてしまっていたら、申し訳ありません。
    お兄さんのご冥福をこころよりお祈りします。

    合掌。

  5. 寿ん一

    不躾ながら、コメントをさせていただきます。
    お兄様は自ら死なずに生きることを選ばれたのだと思います。
    死ぬ日まで一日一日を生きていたのだと思います。
    ご冥福を心よりお祈りします。

  6. tomoyun

    みなさん、暖かいコメントをありがとうございます。
    TLのツイートやはてブのコメントも含めて、改めて励まされ、考えさせられました。

    葬儀のとき、子供達は、最初はハシャイでいましたが、だんだんと兄の死の意味を実感していったようです。

    姪は出棺のときと火葬のとき、母親にすがって、ずっと泣きじゃくっていました。
    それが何よりも、兄への手向けになりました。

    僕は姪の背中に手を添えて、「ありがとう」と言いました。

  7. たぬー

    不躾ながらコメントさせていただきます。
    お兄様の人生を拝読させていただきました。
    お兄様は双極性障害だったのでは?と思いました。
    アップダウンの激しい人生には、双極性障害が隠れていることがあります。

  8. アリーマ

    深い悲しみ、という言葉だけではどうにもならない辛さ悲しさと向かい合っておられることでしょう。
    切々とお気持ちが伝わってきます。

    悲しみと向き合う術は百人百様で「こうせよ」はないのですが、一週間後でも30年後でも、それをなんとか乗り越えた時に得られる成長が遺産なのだと思っいます。

    お兄様のご冥福を、心からお祈り申し上げます。

  9. tomoyun

    双極性障害という言葉を始めて知りました。

    兄は、睡眠障害の気があって、心療内科で睡眠薬を処方してもらったこともありますし、救急車騒ぎのときも、診療を受けたようですが「鬱ではない」とはっきり言われたらしいです。

    僕も普通の人に比べるとかなりアップダウンに差があるので、そういう気質の家系の中で、兄はとくに顕著だったということなのだと思います。

  10. tomoyun

    >アリーマさん
    ツイートだけでなく、こちらでもコメントありがとうございます。

    兄の死の直後は、涙も出ないし意外に悲しくない。俺は冷たい人間だな、と思いました。が、喪失感というのは、あとから徐々に広がっていくものですね。

    葬儀の朝に、結局自分のできることは文章を書くことだけだと思い、追悼としてこの文を書いてみました。

    その結果、ネットで多くの人から感想やコメントをいただきました。とても鋭いものも的外れなものもありましたが、それらすべてに、かなり救われました。

    読んでくれたすべてのみなさんに、改めてお礼します。
    ありがとうございました。

  11. とおりすがり

    まずはお兄様のご冥福をお祈りいたします。

     私にも今年40歳になる引きこもりの兄がいます。私の兄も高校途中までは学業優秀スポーツ万能だったのですが、さほど酷くないものの目立つ部位にアトピーがあり、それが遠因になって引きこもってしまったようです。そのため、やはり同じようにアトピーを持つ母は遺伝の責任を感じているのか兄に甘く、そのぶん結びつきが強いようです。
     私の兄の場合は家の中では普通に過ごしています。
    近所への買い物程度の外出もするようです。しかし、大学を中退して以来もう20年間NEET状態が続いています。

     小学生になる私の娘もそんな兄が好きです。遊びに行ったときにずっと相手をしてくれるから。また、たくさんのTVアニメの録画コレクションを持っていて、ジブリのアニメなどをいろいろ見せてくれるからだそうです。まあ好いている分には良いのかなと思ってはいます。
     ただ、やはり文中で書かれているような将来への不安は私も漠然と抱えています。2人兄弟ですし。同じように父も数年前に癌の手術を受けて、見た目以上に体力の衰えは進んでいるようですし。私は実家からかなり離れて生活しているので、その点も不安です。

     そんな私が今回のエントリを読んで感じたのは、おかしな言い方かもしれませんが、お兄様は立派な引きこもり人生をまっとうされたのかもしれないな、ということ。さまざまな挑戦もされ、稼いで実績も残し、充分に遊び、周りに自分を好いてくれる人々もいる。若くして亡くなられたのは残念ですが、それで迷惑をかけた相手も養わなくてはならないのに残してしまった家族もいない。ご両親ご兄弟は悲しく残念でしょうが、それは引きこもりかどうかには関わらないと思いますし。
     こんなのはおかしな言い方とは重々承知していますが、似た境遇のものから見ればこんなふうにも見えるというをお伝えしたくて書かせていただきました。

    重ねてお兄様のご冥福をお祈りいたします。

  12. こんどうのりこ

    Twitter の 佐々木俊尚さんのTLで知り、ブログを読ませていただきました。

    お身内のご不幸を、こんなふうに書ける文章力に、感動しました。一読し、お兄様は不幸、ではない、と思えました。こんなに、心配してくれる家族がおられ、子供たちから慕われているのですもの。

    でも、お母様のご心情を思うと、涙が出ます。

    昔気質のお父様と、才能があっても、世の中とうまく折り合えない息子さんへの愛情。

    どんなにか、悲しんでおられることでしょう。

    どうぞ お母様を大切になさってさしあげてください。

  13. たぬー

    双極性障害とは、以前は躁うつ病と言われていた病です。
    明らかな躁病の人は双極性1型で、比較的周囲も理解できると思います。
    双極性2型の方々は、日常生活は過ごせるだけに、なかなか気がつかれないことが多いです。
    どちらかと言うと、頭の回転が早い人が多く、社会的に高い地位にある人の中にも多く含まれています。
    30~40代ぐらいから症状が出現し、徐々に社会生活が困難になります。
    放置すると徐々に人格が障害されてきます。
    睡眠障害も特徴的なものです。
    簡単な内服で症状を安定することができます。
    軽いものも含めると、意外に多いのではと言われています。
    大きなライフイベントがあると、顕在化することが多いです。

  14. あゆぴょん

    兄弟は誰も引きこもっていませんが、叔父が今年の2月に孤独死しました。
    父の弟です。
    58歳

    仕事もしていないくて、お酒ばかりのんで。
    父も裕福ではなかったので、叔父の面倒はみれませんでした。叔父は糖尿をわずらってしまったので、働けずに生活保護をもらっていました。
    ですが、死ぬ2ヶ月前から、生活保護のお金には手をつけていませんでした。
    私の部屋は、叔父が生活保護のために、家賃が高くてすめないのでという理由から、受け継いだ賃貸の部屋です。

    でも、なんだか 叔父が苦手で、ぜんぜん、相手をしていませんでした。仕事が忙しいから。
    今考えると、なんてくだらない理由だったのか。
    叔父さんごめんなさい。

    叔父さんは私の自慢だったのに。ごめんなさい。

    この文章の方がも、お兄さんが自慢だったのだと思います。
    お父さんも

    この文章で、お兄さんはこの文章を読んだ読者の人の心の中に何かを残していくと思います。
    学習障害 学校の勉強がすべてではないということを早くいろいろな人が気がついてほしいと思います。

    私の彼氏は九九は5の段までしか言えないそうです。
    でも、バスの運転手をしています。

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