僕もずっと「これは酷いな」と感じていた。
どんな場合でも、古舘伊知郎氏がニュースの最後で「もっと真剣に考えてもらいたいものです。」や「もっと誠意を見せて欲しいものです。」などと行った締めを言います。まるで一つの決まったパターンのように。かといって、番組内で具体的な提言があるかと言えばそれもなし。
[From 報道ステーションの古館はプロレス的ドグマに捕らわれているんじゃないのか疑惑 – Future Insight]
夜帰宅してニュースを見ようと思うと、運悪く『報道ステーション』しかやっていないことが多い。嫌いだから見たくないのだが、時間の都合でとりあえず見てしまうことも多い。
先日の報道ステーションのお天気コーナーでのこと。ここ最近の寒暖の変化の激しさについて、「この季節は大陸からの寒気と南からの暖気がせめぎ合うので、よくあること」と論理的な解説が流れた。
ところが、画面が切り替わると、深刻な表情の古館伊知郎が「な〜んか、おかしいですよね。よく考えてみなければいけないのではないでしょうか?」と語る。言外に「地球温暖化の悪影響だ」という主張を匂わせるかのように。
ダーーーーッ! 今、オマエんとこのお天気キャスターが「よくあること」って科学的な理由も添えて、説明しただろうが。オマエは人の話を聞いていないのか? それとも、「地球温暖化の悪影響」の不安を煽り立てたいだけなのか!?
【不安と怒りが商売のタネ】
もともと、古舘伊知郎にとって、テレビは虚飾のメディアでしかない。テレビは真実を伝えるためではなく、その場限りのカタルシスで日常の憂さを晴らせばいい。古舘伊知郎には、常にそんな気分が見え隠れしていた。
最初はプロレスだった。真摯な格闘技なのか、インチキショーなのか。常にその疑惑の狭間にあったプロレスを、マンガチックで非常識なまでに大げさな表現の実況中継によってエンターテインメントの異空間を作りだしてブームを盛り上げた。話芸だけで、それを成したことは、確かに凄かった。
しかし、プロレスよりも、もうちょっとだけシリアスな世界であるF-1で同じことをやったときは、古くからのモータースポーツファンの激怒を買った。のちに古館は、「初めての放送で、自分も興奮して訳がわからなくなって、フジテレビにジャンジャン抗議の電話がかかってきた」なんて言っていたけど、たぶんウソ。あの実況は、F−1を古館なりの視点で分析し、プロレスのノウハウを適用した確信犯的行動だろう。だから古館の実況は常にオーバーな比喩で、レーサーたちをプロレスラーのように紹介し続けた。まあ、古くからのファンなんかよりも、新しい視聴者を獲得しないと商売にならないから、フジテレビ的にはOKだったはず。
古館的過剰演出手法は、その後のテレビ界全体に波及したように見える。今や民放のスポーツ中継のすべてが、大げさで嘘くさい演出と、お涙ちょうだい物語であふれかえり、見るに堪えないものになった。そういう意味で、古館は時代をリードしたともいえるし、今のテレビばなれの一因を作ったともいえる。
もうひとつの古館の持ち味は、ワンパターンの美学だ。水戸黄門と同じように、決まり切った場所の決まり切ったセリフで、予定調和の世界を作り上げる。ひたすらわかりやすい、思考停止の世界。「オシャレ関係」で、cobaのアコーディオンが流れ出すと、古館が穏やかな声で、ゲストの家族や友人や恩人の手紙を朗読する。涙ぐむ出演者。涙の浄化作用がカタルシスとなって視聴者を満足させる。
報道ステーションで古館は、ニュースにおいても同じことをやっている。なんでもかんでも、「政治家と官僚と大企業が悪い」「庶民は搾取され、苦労している」という善悪二元論に落とし込む。そこでは、グローバル化の功罪や経済の仕組みといった分かりにくい要素は排除される。善と悪が明確にならないから。まさに水戸黄門。
結局、それは「報道番組もエンターテインメント」というひとつの(演出|営業)方針なのだろうけど、今の世情とテレビの影響力を考えると、「そこまで無責任でいいのか?」と、ついつい怒りたくなってしまう。ああ、俺ってオヤジ。