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 ともゆきです。 このブログは、ずばぴたテックのホームページといいつつ、僕の私的な観点から、さまざまな情報を発信していきます。まあ、ほとんど、日記&メモかもしれませんが。 以下はプロフィールというか、懐かしい思いで。 (ときどき、アップデートしています)

  • 本名:根岸 智幸。
  • お仕事の依頼、ご相談→メール:req@zubapita.jp
  • http://mixi.jp/show_profile.pl?id=414523

  • 座右の銘は「鶏口となるとも牛後となる無かれ」(オジさん臭っ。でも中学の授業で習っていらい、ずっとです。)
  • 1963年11月19日生まれ。東京都出身。A型。ぜんそくとアトピーのひ弱な子供。外に出してもらえなかったので、LEGOと本がお友達(つーか、公害喘息らしいのだが、幼稚園のとき引っ越していたので、補助をうけていない)。そのせいか、字を覚えるのだけは早かった。3才と5才のとき、右肘を骨折。間接が曲がってついてしまった。
  • 1969年 静岡県浜名郡湖西町鷲津(現湖西市)に引っ越し。相変わらず、本ばかり読む、頭でっかちな子供。小学校5年のとき、担任の菅原先生が、「放課後、クラブ活動しない子は草むしりさせる」というので、菅原先生が顧問の水泳部に入る。鷲津小学校/中学校は、水泳に力を入れていて、共有の9コース50メートルの競泳用大プールと25mの中プール、低学年用の小プールがあった。入部当時は、ほとんど泳げなかったので3軍。1カ月もすると50m泳いで2軍。どんどん力がついて、そろそろ1軍、というとき、「曲がった右肘を治さないか」と言われる。
  • 1974年9月 障害を持つ子供のための病院「静岡県立西部養護園」に入院。併設の「静岡県立西部養護学校」に転入。事務長の内山さんに、いろんな本を借りた。一番影響を受けたのは、第二次大戦中のドイツUボート部隊の戦いと指揮官カール・デーニッツの活躍を描いた『デーニッツと灰色狼』という厚さ10cmくらいある本。その本によればデーニッツは信念の人であり、指揮下のUボート艦長たちも中世の騎士じみたところがある。敗戦時、デーニッツはヒトラーから後継者に指名される。戦犯裁判ではほかのドイツ軍高官と異なり自己弁護を一切せず、「Uボートの輸送船攻撃は国際法違反である」という指摘とのみ争った。その結果、高官達のなかでデーニッツのみが縛り首とならず、わずか10年の服役で済む。このデーニッツとUボート艦長たちの生き様が、強く印象に残る。高校の時、新聞の死亡欄でデーニッツが天寿を全うしたことを知った。
  • 1976年 中学1年。SF小説と軍用機に夢中になる。図書室で借りた筒井康隆著『SF教室』は、いまでも心のバイブル。平井和正の『ウルフガイ』や『ゾンビーハンター』と『航空ジャーナル』が愛読書。
  • 1979年 高校1年。『機動戦士ガンダム』に滅茶苦茶ハマる。『月刊OUT』と『アニメック』を愛読。編集者時代に「文章うまいですね」と言われたのは、全部OUTの真似。『ガンダムセンチュリー』とその原点となった同人誌「GunSight」もバイブルだった。OUTでガンダムの総監督の富野喜幸が「アニメ見ていないで古典を読め」と発言していたのを読んで反省。いまだに反省中。
  • 1980年 マンガ界にロリ○ンブームが突然吹き荒れる(いまみたいな商業誌で「萌え」なんてあり得なかった時代)。晴海のコミケで、なんか行列ができていると思って買ってみたら、黒い表紙の『シベール』(参考)だった。吾妻ひでおが大ブレーク。『フュージョンプロダクツ』のロ○コン特集号に載っていた、○リコンの歴史を知的に考察した文章が凄く印象に残る。筆者の「エンドウユイチ」という人が、のちに上司になって大きな影響を受けることになるとは思わなかった。
  • 1982年 大学1年。「FM-7」でBASCプログラミングに夢中になり、UNIXに憧れ、OS-9で片鱗を味わう。この頃のバイブルは『月刊アスキー』と『Oh!FM』。東洋大学マジシャンズソサエティーに入会。テーブルマジックがやりたくて入ったのだけど、大学のマジ研は、大きな舞台の発表会がメイン。自分たちで大きな会場を借りて、演出やBGMをしっかりと作り上げる。一流プロマジシャンのビデオをすり切れるまで見て研究し、自分のオリジナルを考える。良い先輩、良いOB、良い同輩、才能ある後輩に恵まれ、エンターテインメントの作り方を学んだ。進行も分単位でメチャクチャ厳しい。編集長時代に人前に出ることが結構あったけど、どこでも進行が緩いので、逆に驚いた。
  • 1983年~1986年 日比谷の東宝ツインタワービルの地下にあった「エスパース・ジロー」というシャンソン・パブでバイトを始める。高い天井の吹き抜けには夜空の星を模した無数のモビールが煌めく。響き渡るシャンソンやカンツォーネ。エスパース閉店後は、同ビル9階のジローに移った。両店でお世話になった店長の山賀さんは、元バーテンで、新宿でやってた自分の店を潰して店長になったという人。とんでもない酒飲みで、営業中からお店の酒をがんがん飲んじゃう。スタッフにも閉店後、がんがん食わせる。管理の達人で常識外れにロスを出さないため、そんなことが可能なのだと聞いた。ジローでは赤字店をまかされては、立て直してきたそうけど、残念ながらエスパースは救えなかった。山賀さんは興が乗ると、バーテンのちょっとした技を見せてくれた。ブランデーグラスの内側全体に薄くブランデーを行き渡らせ、優雅にマッチで火を付けると青い炎が怪しくゆらめく。香りをよくするためにグラスを温める技。シェイカーは8の字に振る。「縦に振ったら氷が砕けて酒が薄まる」。アルバイトでも頑張ればカウンターに立たせて貰えるので、雨の月曜とか暇なときはシェイカーを振る練習。両店はシェフのレベルも高く、9階のジローでは、「ジローってどこでも同じ味じゃないんですね」とお客に驚かれるほど、良い料理を出していた。いまだに、ここよりもおいしいフェットチーネを僕は知らない。卵とほうれん草の2種の生パスタ。毎日パスタマシンで作っていた。抜群の食感。ピザは薄い生地でもないのにサクサク。食と酒と仕事について、あまりに多くのことを学んだ2年半。
  • 1986年 大学4年。サークルの仲間の影響で「おニャン子クラブ」に滅茶苦茶ハマる。同人誌『みんなの歌謡曲』への寄稿にあった「おニャン子のファンであるということは、時代という祭りに参加することだ」という一文は、当時の熱気をよく表していた。のちにエンドウ氏の紹介で、『みんなの歌謡曲』に連載を持っていたとみさわ昭仁氏とお仕事できたのも、多生の縁か。
  • 1987年~1989年 株式会社CSKにて大型汎用機(メインフレーム)のエンジニア。アセンブラでTPFというOSの中身(コア)をいじくったり、PL/Iでツールを作ったり。コアダンプが起きるたびに、A3サイズ×10cmのダンプリストと格闘。ニモニックすら面倒で、16進コードを読んでデバッグ。「趣味は仕事で、特技はお客とケンカをすること」という鬼軍曹みたいな分室長の小泉氏の元で、エンジニア魂とビジネスマン魂を学ぶ。ここで受けた新人教育の手順は、後にアスキーで何度も使わせてもらった。難関プロジェクトをこなしながら、SE自身が請け負い先に営業して新しい仕事を取ってしまう。その割にスキーや温泉旅行にも行って、しっかり遊ぶ。凄い先輩たち。でもオタク文化に1ミリの理解もなく、昼休みに『オリコン・ウィークリー』を買って帰ったら、変人扱いされた。いい大人がアニメとかアイドルとか言っていると、頭がおかしいと思われた時代(いまも?)。
  • 就職2年目ぐらいに、突然オタク色が抜ける。メガネをコンタクトにして、パーマをかけて、オシャレにも少し気を遣った。月刊OUTのバックナンバーを全部捨て、山のようなガンプラやバルキリーは親戚の子供あげた。AERAやニューズウィークや村上春樹を読み、後輩の女の子を誘ってデートに行ったり。自由が丘のエグザス(まだステータスがあって安い割に中井貴一や時任三郎も来ていた)で体を鍛えたり。理由はとくにない。というか、そういうコトもしたい年頃。
  • 1989年~1992年 月刊アスキー編集部に転職。憧れのエッセイ「近代プログラマの夕(ゆうべ)」の筆者ホーテンス・エンドウ氏は、知的でダンディな人を想像していたのに、オタクという言葉の創始者にして帝王だった。が、もの書きの基本など、猛烈に影響を受ける。麹町の南インド料理店アジャンタ、西麻布の怪しいバラックのカオタンラーメン、六本木の香妃園の鳥煮込みそばなど、深夜に食べる楽しみを教わる。体重が急増。主な仕事は「別冊アスキー パーソナルコンピュータガイド」シリーズの編集。ソフトウェアカタログの作成に心血を注ぐ。社外の人と組んで仕事することが多く、もの作りの基本を学んだ。とくに同い年のO氏には編集のイロハを学ぶ。元漫研、元初期のコミケ実行委員会で元マンガ編集者というその道のサラブレッド。エンドウ氏の周辺はこんな人が多くて、僕のようなパンピーオタクには夢のよう。日本初のパソコンハードウェアチューニング誌「98バリバリチューニング」、月刊アスキー内でも不定期連載「どーするどーする研究所」とかもやっていました。趣味でアイドル記事や女の子企画もやった。当時はお堅い雑誌だったので、取材先からも「本当に月刊アスキーなんですか? ログインじゃなくて?」と何度も聞かれたり。とにかく仕事が楽しくて、休日も時間があれば会社に行ってた。
  • 1990年にMacintosh Classicが発売され、会社に買ってもらったのが、最初のMac。翌年からPowerBook 100、PowerBook Duo 230とPowerBook系を買い続け、現在のMacBook Proまで計7台。デスクトップは4台。会社で買ったのは、Classic、Duo 280c(これは前任者のお古)、Pioneer GX1、UMAX Pulser 150、20th Aniversary Mac。思ったより少ないな。でも、実はWindows歴のほうが古く、1989年には、Widnows 2.11とExcel 2.1を買ってもらってPC-9801RXで使っていた。飯の種はつねにWindowsで、Windows 3.1の特集も、Windows 95もXPも、全部Macで記事を作った。
  • 1993年~1995年 日本初のCD-ROM付き定期刊行誌「アプリンク( UPLINK)」の編集。誌面の編集しながら、Adobe Premiereでビデオの編集したり、Macromedia Directorでオーサリングしたり。ある日表紙のモデルが決まらないというので、知り合いのカメラマンにプレ・アイドルを紹介してもらう。「持田真樹に似た可愛い子がいるんだよ」。16才の菅野美穂だった。子鹿のように可憐。彼女がキスマークを付けたCD、捨てられずにまだとってある(はず)。20才でヌードになったときは大ショック。でも、良い女優さんになりましたね。
  • 1995年〜1997年 月刊アスキー編集部に出戻り。東芝とApple Computerの担当でした。ミニノート「Libretto 20」の発売一カ月前に現物をもらったけど 「スクープ記事は駄目」といわれて、CGで詳細な「予測記事」を作ったり(東芝のような超大企業は記者クラブとの付きあい上、アスキーに事前リークはまずいそうで。日本のマスコミの実態なんてね。。)。Appleの没落と苦闘、ジョブズ復帰による復活の始まりを直に目撃したり(97年1月のサンフランシスコ、同7月のボストンのジョブズの基調講演は一生の思いで)。PCとITが一番元気なころで、とにかくエキサイティングな日々。パロディ連載「混沌新聞」もO氏から譲ってもらい、やってました。
  • 突然、映画コーナーの担当。パイオニアにいた某氏のつてで、ハリウッド在住のパイオニア子会社の女性に連載を依頼。毎月試写会でメジャーな映画もマイナーな映画も。現週刊アスキー編集長の宮野氏が95年ロスのSIGRAPHに連れて行ってくれる。エレクトリックシアターの出だしがフルCGの本格的な映画で度肝を抜かれる。それが『トイ・ストーリー』のパイロット版だった。帰国後、ブエナビスタの広報と仲良くなり、ラセター監督のロングインタビューを掲載。ラセター氏が宮崎アニメのファンだと言うので、僕も好きだと言うと、『トトロ』の演出がいかに優れているか、シーンを追って細かく説明してくれた。
  • 1997年 「正社員になれ」「ならない」を繰り返していたが、「これ以上はギャラは上がらない」と宣告されて正社員に。ついでにデスク職に。「作り手が失敗や苦労をしたほうが読者は喜ぶ」と信じて若者に無理難題を言ってみたり。恨まないでください。
  • 1997年〜1998年 ビジネスマン向けに「月刊ドットPC」を創刊。周到なリサーチと誌面作りで成功した希有な体験。ところが、会社の都合で編集部はたった3号で解散。大好きな月刊アスキーから異動させられて、だからこそ必死の思いでやったのに。「週アスに行け」と言われて断る。
  • 1998年〜2000年 なりゆきでインターネットアスキーの編集長。インターネットを全然知らないのに編集長。編集部の経営もわかっていなかった。すでに死に体の雑誌でしたが、2年弱での終焉は、やっぱ僕の責任。今の知識があれば、雑誌を救えたんじゃないかと思うから、余計に悔やまれる(まだ十分に広告収入が入っていたのに)。まあ、1年ちょっと前までヒラの契約編集者だったのだから、無理があった。でも凄く楽しかったのも事実(編集部内で年中パーティしてたし)。この仕事で、ネットが個人の力を拡大するメディアであることを実感。副編集長だったO氏に「雑誌作っている場合じゃないよね!」と言われて、真に受けた結果が今。
  • 1999年 オシャレ好きな普通の女性と結婚。唯一の共通点は食べるのが好きなこと? 彼女に連れられて元日のカウントダウンは、外人しかいない六本木の路地裏。プエルトリカンのオヤジと対等に踊る奥さんに驚く。日々、服装の指導を受ける。どんどん抜けるオタク色。
  • 2000年〜2001年 編集長をクビになって、またも「週アスに行け」と言われて、また断り、インターネットメディア局へ潜り込む。この時点で「データベースと結合したWebコミュニティ」がこれからのネットだと確信。R&Dプロジェクトとして、「東京グルメ」を作らせてもらう。サーバマシンを自作し、LinuxとPHPとPostgreSQLを独学して、制作。監修してもらった東大生産技術研究所のT先生とは、完全にビジョンが一致し、2001年3月の時点で東京グルメはクチコミサイトとしては、ほぼ完成形だった。でもアスキーの偉い人たちには、最後まで理解されなかった。。
  • 2002年〜2004年 またしても大赤字で死に体の雑誌「PCエクスプローラー」の編集長。当初は副編集長で参加。1年たって毎月1000万円以上赤字に「もう解散」というので、「せっかく良い人材が育ちつつあるのに、また流出させるの?」と発言。その後、若手に絞ったメンバー一覧を見せられ、「このメンツで雑誌作れると思う?」「大丈夫じゃないですか?」(まだ他人事)。帰宅して奥さんに話すと、「それ誰が編集長やるの?」「え。。。ぼ、僕?」。なにか突き抜けたコンセプトが要ると考え「白ハッカー」を謳う(まだハッカー=犯罪者だった)。スタッフの指向を活かして、世界初の詳細なDivX特集やDVDリッピングの研究など動画系が当たり、初年は単月黒字達成、単年度黒字直前まで健闘。マッキンゼーのコンサルだった小森さんが社長になって、マーケティングや管理の手法について多くのことを学ぶ。このときは上手く生かし切れなかったけど、いまでも志は忘れない。でも2年めは失速。理由はいろいろあったけど、いわゆる暗黒系はやりたくなかったし、気持ちはすでにネットに向いていた。でも、思い返すにスタッフは素晴らしい連中ばかり。ライターさんや外部スタッフも。本当にゴメン。
  • 2003年 双子の父親となる。男だったら「猛」と「隼人」、女だったら「さくら」と「ももこ」にしようと企んでいたが、「猛と隼人」は奥さんが猛反対。結局、生まれてきたのは二卵性の男女で、「直也」と「さくら」と命名。
  • 2004年〜2006年 アスキーに「東京グルメのシステムで事業をしないか」と提案したが実現できず、じゃあ自分で東京グルメを事業化しようかと退職を決意(このとき権利関係をクリアにしてくれたアスキーの経営企画室や法務部のみなさまには本当に感謝しています)。その後ライブドアから「一緒にやりませんか」と電話。会社(ずばぴたテック)を設立し、東京グルメを売却。ライブドアグルメとして運営するために、社員になった。自分の会社を持ちながら社員になったわけだが、当時のライブドアでは、「自分の会社を持って(いる|いた)」人は珍しくなかった。退職の理由も「起業」が多かった。起業家集団のものすごい熱気。週一回、堀江社長の会議。アスキー時代の癖でふんぞり返っていると、堀江さんは、まっすぐ座って頭を垂れて書類に向かっていた。反省。ライブドアグルメは、2005年後半にライブドアのフレームワーク「Sledge」でゼロから作り直し。シッチャカメッチャカで大変だったけど、勉強になった。ご迷惑をかけたライブドアスタッフのみなさんとユーザーのみなさんには本当にごめんなさい。
  • 2003年ごろから、東京グルメの常連ユーザーさんたちに、ボランティアで運営・管理を手伝っていただくようになり、2004年以降は、年に数回オフ会に招いていただく。そのたびに、目から鱗が100枚くらい落ちるような意外かつ美味な料理に出会う。
  • 2006年〜2008年 ライブドアを退職し、請負で仕事を続けさせてもらう。新たに「本が好き!」の企画を提案し、開発=僕、運営=ライブドアで始める(その後運営も引き取った)。元アスキー同僚のレスポンス編集長三浦氏の依頼で、「カーライフナビ」を開発。続けてUSEN LEM事業部の依頼で、新型Webコミュニティの企画・開発に取り組み、「くりま!」を開発。
  • 2006年ごろから子供の成長に合わせて、家族で仮面ライダーとかプリキュアとか見るようになった。奥さんは特撮とかアニメを拒否していたのだが、子供と一緒なら構わないらしい。『仮面ライダーカブト』があまりに傑作で、家中こぞってファンになる(ライダーが正当派イケメン揃いなのが良かった<奥さん)。就職、結婚、という流れの中で、自分の中のオタク色を徐々に消す方向でいたが、やっぱ、オタク文化は楽しいと再認識。20年ぶりぐらいにアニオタがぶり返し、徐々に加速。その影響で、直也はザブングルを口ずさみ、さくらはハルヒ・ダンスを踊る。ちょっと眉をしかめる奥さん。と思ったら、姪っ子は、らき☆すたを踊るらしい。「さすが兄弟ね。オタクの血筋」。いや、コウイチ君は妹の旦那であって、僕と血のつながりはないのだが。どうやら密かに増殖中らしい>オタク・パパ。つーか、子供万歳。
  • 2007年 我が家にスポーツブーム到来。毎週日曜朝、直也と一緒に空手を習う。さくらはバレエ。やがて、さくらと奥さんも空手に参加。年明けには、さくらと直也が10級に合格。2008年春から幼稚園の体操教室にも入会するらしい。僕は2006年から徐々に近所を走り始め、いまは調子の良いときは10数キロ走る。奥さんはさくらが小学校に上がったら、一緒にサーフィンを習いに行くという。僕は直也にカートをやらせたい。つーか、子供万歳。

うーむ、脈絡がない人生。まあ、面白ければいいんですよ、人生なんて。

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